かわいくなくていいって思わせろよ
少し前にTwitterで話題になっていたらしい、『おしゃカワ!ビューティー大じてん』(成美堂出版)という本のことを最近知った。
この本自体、2018年刊行のものらしいんだけど、もしこれらが本当に小学生の“モテ”に必要な要素なのだとしたら、その基準の厳しさに驚かされる。
め、めちゃくちゃ大変そうだ……。
しかも「さしすせそ」って! そんな、合コンだとかの大人の社交場で生まれた超ステレオタイプな接待方法を“意中の人に好かれたい”と切実に願ってる小学生へ推奨してしまうのか……。
まぁもしかしたら、コミュニケーションが苦手な子にとって多少の助けになる可能性もなくはないけど。でもそれにしたって、まず“意中の人の気を引くこと”に紐づける話ではないんだよな。
と、これだけでもモヤモヤしたんだけど、この件でWeb記事を書いた方のツイートで更に内容の引用がなされていて、それがもう……。
自分の学生時代の辛い記憶を思い出させる文言があったため、少し涙が出てしまうほど辛かった。
(尚、ツイートの大元にはこの方が書かれたWeb記事があるのと、これらのツイートに連なるリプライ上でも色々と興味深い議論が交わされているので、もし興味がある方は是非見てみてください。)
まあ、他者への気遣いや気配りは恋愛とか関係なく大事なことなので、百歩譲ってよしとしよう。(それらを女子だけに求めることは問題だけど。)
何より私は、
・ボクたちこんな女の子が好きトップ5の1位が「かわいい」
・上目遣い
この2つが本当にキツかった。
つうか、上目遣いってマジ? 2018年でも、まだこんなこと言ってるのか?と思う古さだけど……まあそれも含めて、その理由を語っていく。
この『おしゃカワ~』は書籍だけど、昔からティーン向けの女性ファッション誌にはこれと同じような“モテテク”、あるいは“学校内クラス内での処世術”的な内容の特集が毎号のように載っていた。たぶん今でもそうだと思う。
あの、ページで言うと真ん中から後半あたりの、単色刷りの部分ね。私も中学生くらいからは一応、姉が買ってくる『SEVENTEEN』とかを読んでいた。
それで当時そういったファッション誌で見た中で、なかなかにショッキングだったため、今でもよく覚えてる1ページがある。
掲載誌は忘れてしまったけど、ちょうどさっきのツイートの中にあったような「男の子は、こんな女の子が好き!」という特集ページの1つだった。
そのページは、制服を着た女の子の全身写真がド真ん中に大きく載せてあって、その写真に向かってたくさんの矢印が伸びていた。
矢印の根元にはそれぞれ、髪はこんな風。メイクはこんな風。スカートの丈はこのくらい。など、同世代の男子から集めたらしい様々なコメントが書かれていた。
そして、その中の一つ、女の子の頭のてっぺんに伸びた矢印を辿ったところに、こう書かれてあった。
「身長は、高すぎず、低すぎず」。
改めて考えると、なんて無益でグロい一言だ。
というか、バカか? 実際に聞き取りしたとしても書くなよ。
身長の高さなんて人気だろうが不人気だろうがどうしようもねえじゃん。
しかし多感な13~14歳……その上、よりにもよって幼い頃から高身長で、その年頃には既に170cm台に到達していた私は少なからずショックを受けた。
そもそも私は、高身長に加えて男顔で、肩幅ガッシリめ、下半身太め、髪は鬼のようにクセが強い天然パーマで毎日悩まされていたし(縮毛も値段が高いからか親に止められてた)、オシャレも苦手で、口下手で……10代の所謂「かわいい&モテ」の市場においては、居ないも同然の人間だった。
今となっては思い出して苦笑いする程度の記憶だけど、私はどちらかといえば恋愛体質だったし、また単純に“他者から好かれたい”という承認欲求もそれなりにあったので、当時は自分が自分であることが心の底から辛かった。
10代の女子としての「かわいい」を欲しがっていた。
どう考えても向いてないのに。
そのせいで、コンプレックスの塊になりながら生きていた。
当時の私がティーン向けファッション誌を読んでいたのは、オシャレや美容を知るのが楽しいからとか、美しいモデルさんに憧れているからとか、そういうポジティブな動機ではなかった。
ただもう「どうすればいいかわからない」。
そして「せめて自分であることが辛くなくなる水準の容姿に近づきたい」。
そういう、泥臭くて切実な感情からだった。
でもファッション誌の情報は私の助けになるどころか、ジワジワと、私のコンプレックスをより強大なものにしていったのだった。
極めつけがこの「高すぎず、低すぎず」である。
まあ、さすがにこれだけは当時も、ええ……?これはどうなの?と多少の疑問は沸いたし、丸ごと鵜呑みにしたわけではなかったけれど。
それでも、クラスの女子達がお手本にしている雑誌からお前はどう転んでも圏外とこうも真っ向から突き付けられたのは大きかった。
まあ、それでなくても――。
例えば本屋で雑誌を眺めていたら、後ろを通った男性二人組が「デカ……」と言い、こちらを見てせせら笑ったとか。
電車に乗り込んだ時、ドア付近に居た男性グループが一瞬押し黙ってから、「自分より背が高い女性は無理」「165cm超えたら無理」という会話で盛り上がり始めたとか。
そういう経験もあったりしたので。
なんとなく、そういう言葉たちが少しずつ積み重なって、足枷のようになって、ズルズルと引きずられて行ってしまったんだと思う。
楽しいことがないわけじゃなかったけど、外見の悩みの深さに関しては、本当に暗黒の時代であった。
今だったらわかるんだけどなぁ。
別に、かわいくなれなくてよかったんだと。
むしろ向き合うべきは、他者からの承認の有無に依存する思考や、臆病な性格だった。そして、自己嫌悪に苛まれて俯いてばかりいたその時間を使って、もっと自分の好きなことや、やりたいことを見つめ直すべきだった。
(まあ、いずれにしても他人の見た目を笑ったり勝手にジャッジしたりした男性達は最低ですけど)
あの頃の私のそばに、今の私が居られたら、どんなに良かっただろう。
私があの『おしゃカワ~』の内容をTwitterで見た時、あの頃の気持ちが一気に蘇ったし、あの本の向こう側で、泣いている女の子の姿がありありと思い浮かんだ。
自分のように「かわいい」にがんじがらめになっている女の子が。
学年で1番背が高いのに、上目遣いとかする機会ないよね。
そもそも吊り目だから、睨めつけるようにしかならないしね。
てか、上目遣いだけで可愛らしくなる女子って、実際そんな居ないからね。
肩幅が目立つことにしかならないから、女性らしさを強調できるフワッとしたニットや、袖口が絞られたチュニックとか着られなかったよね。
そもそも毎日、アホほど似合わないセーラー服を着るのが心底苦痛だったよね。
お陰で今でもセーラー服を象徴的に扱う表現物は嫌いだよ。共感できないから。
シャンプー変えただけで、どうにかなるクセ毛じゃなかったよね。
梅雨時期の朝なんか、どうやっても変な髪型にしかならなくて、洗面台の前で泣いたのは一度や二度じゃなかったね。
「かわいい」は向いてないです、今でも。
でもそれで別に良いんだよ、結構楽しく生きられるよ。
自分の見た目との付き合い方も、それなりに見つかって楽しめているよ。
(もっと早く見つけられればよかったんだけど)
そりゃあやっぱり、選ばれたい相手に選ばれないのは凄く悲しいことだけど、それで自分の全てが決まるわけでもない。
だからもっと楽しいことを追求していこう、自分を好きになれるように。
とはいえ難しいでしょうね。相応に、意思と精神力が強固でないと。
悪しきルッキズムが無くならない限りは。
でもせめて、次世代に向けて減らしていきたいし、なるべく抜け目なく物事を見直して、考え続けていきたいな、と思う。
コンプレックスを刺激してお金を使わせようとするコンテンツも、批判していきたい。
まあそれでも私の時間は、もう二度と戻ってこないけど。