ミチスガラ

LDHアーティストが好き。色々書きます

HiGH&LOWとLDHが教えてくれたこと・②「つくること」

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(↑前回記事です)

この記事では自分のパーソナルな話をしています。
読み飛ばしても、後の編にはだいたい繋がります。

 

3.私と、私の創作活動のこと

去年30歳になりました。平成元年生まれです。
仕事はずっと事務員です。

小学生の頃くらいから音楽が好きでした。親が聴いていた昭和のフォークソングが特に好きだったこともあり、中学生になった頃、アコースティックギターを練習し始めました。

その頃(2000年代初頭)、日本国内では邦楽ロックバンドがとても流行り始めていました。私もどんどんバンドにハマっていき、高校生の頃には他校の人とバンドを組んだりし始めました。

のめり込み易く飽きやすい性分でした。ギターは下手でした。
ただ音楽が心から好きで、好きな音楽を好きでいる自分も好きでした。
軽音楽部に所属してコピーバンドをやっていた大学時代を経て、働きながら自分で曲を作るようになり、ライブハウスでアコースティックギターの弾き語りをするようになりました。

自分の心の内を歌にして、人前に立って唄うことの感動は何にも代え難いものだったと、今でも思います。子供の頃から大好きだった歌い手と運よく共演してもらえたこともありました。一生の思い出です。

ただ、なかなか成長はしませんでした。続けていくうちに、最初は楽しかった曲作りも、少しずつ行き詰っていくようになりました。集客で悩んだり、お客さんからの言葉に傷ついたり苛立ったり、それまで気にしていなかったことがだんだんと重く感じられていきました。

どんどん義務感や劣等感、焦りばかりが増えていって、ライブの直前に「死にたい」と思うことが多くなりました。
ライブハウスのスタッフの方々や、数少ないお客さんに対して、申し訳なさしか残らないようなライブが続くようになりました。

――我ながら、情けなくて恥ずかしくてたまらない話です。
要は私は才能とかセンスとか以前に物事への探求心、向上心、忍耐力が足りていなかったのです。
私は、音楽をしてお客さんからお金をもらうべきではない。
はっきりとそう思って、5年ほど続けた活動をぱったりとやめました。

音楽を通して仲良くなった人とはその後も時々会うことがありましたが、少しずつ、話が合わなくなっていきました。

ある時、弾き語りの友達の一人から、私は「夢を失くした人間」であると、軽口の中で言われたことがありました。大人数で話していた中での、本当にちょっとした軽口という感じでした。私は笑いながら、ふざけた調子で「うるせえなぁ」とだけ返しました。

ただ、その言葉はずっと私の心に引っかかっていました。
それを言った女の子とは気の置けない友達でしたが、だんだんと、会っている時のお互いの言葉にトゲが混じるようになりました。やがて、決定的なすれ違いが起こったことで、連絡を取らなくなりました。

この一連の出来事は私の中にかなりの遺恨を残しました。

皆にはもうすっかりそう見えているんだろうか。私は挫折して夢を失った人間だと。
私がやってきたことって何だったんだろう。私の歌なんて、皆にとってお笑いものだったんじゃないだろうか。だって私は全然続けられなかったんだから。

考えても仕方がないのに、そんな思考から抜けられなくなりました。

疎遠になった女の子も含めて、音楽活動を続けている友人達に対して、リスペクトの気持ちはずっとあります。ただ、その一方で創作を続けられなかった自分はなんて価値のない人間なんだろうと自分を恥じて、責め続けることをやめられませんでした。
そしてそんな自分にどうしても向き合えず、自分の歌を知っている人に会いたくないという気持ちも強くなり、音楽を通した繋がりはほぼ完全に断絶しました。

思えばバンドをし始めた頃から、ずっとそうでした。特別秀でた能力もなく、人付き合いもさほど得意でない私が唯一自分を表現できる場であり他人と関われる手段であり、心の拠り所であったのが音楽だったのだと思います。

創作を止めた自分の中に残ったのは激しい自己嫌悪と劣等感でした。

それでも、もともと何かとのめり込み易かったので、ドラマ・映画鑑賞等それなりに趣味を見つけてやり過ごしてはいましたが、何せ全てが一人で完結する事だったのもあり、恋人とごく僅かな友達以外はほとんど他人に会わなくなりました。

すると、元来人見知りで口下手な人間だったためか、久々に会う知人や初対面の人と雑談しなければならない場面で異様なまでに緊張するようになり、なかなか言葉が浮かばない、というようなことがしばしば起こりました。

多分このままじゃダメだと思いました。でもどうしたらいいのかわからない。それに、私が何かやってみたところで結局また他人を巻き込んで迷惑をかけるんじゃないだろうか。もう自分に失望するのは怖い。
でも、じゃあ一生このまま?

過去に引きずられて、未来は何も見通せなくて全然前に進めない。
なんていうか、「今だけを見る」って、こんなに難しいことだったっけ。

堂々巡りの思考のまま、家と職場を往復する日々が続きました。そうしている内に、当たり前だった生活のルーティンまで、少しずつままならなくなっていきました。
何年も通っているオフィス街のザワつきに不安を覚えたり、手慣れた仕事の対応で心臓が高鳴って、スムーズにできないようになりました。結婚する予定の恋人に頑なな態度をとり、断絶に近い喧嘩をしました。

いよいよ私ヤバいのかも。もう、後がないのかも。
HiGH&LOWに出会ったのは、そんな最中でした。

4.村山さんがくれたもの

と言っても、そこで何か革命的な変化がもたらされたわけではありません。
ただ、HiGH&LOWと村山良樹が私の背中に最後の一押しをくれた、と感じています。

村山さんの、あの台詞。

仲間がいるだけじゃダメなんだよ
てめぇが変わんなきゃ、どうやら世界も変わんねぇみたいだわ

まずは自分が変わらなきゃいけない。
世界は途方も無いくらいに変わらないけれど、自分は変えられる。

これまでの私だったら絶対に「いや、そんなことわかってるんだよ」と耳を塞いでしまいたくなっていたはずの、実に率直なメッセージ。

でも、村山さんが仲間達に囲まれて称えられながらも、ふと心の中で優しくつぶやいたその台詞は、不思議と心の中で鳴り響いて止まなかったのです。

強く、美しく、だけどとっても人間らしくて、愛らしい村山さん。
考えに考えた末、仲間たちに寄り添い、後輩に真っ向から向き合ってあげた村山さん。

そんな村山さんの姿に私はストレートに心を打たれ、ほとんど恋のような強い憧れを抱きました。

今になって考えるとわかります。どうやら私は、誰かを追いかけて「この人のようになりたい」「この人に認めてもらえるような人になりたい」と思うことが、とても強い原動力になる人間だったようです。

人によっては、このことを「自分が無い」「他人に依存してる」と笑うかもしれませんが、村山良樹というヒーローが現れたことで私は少しずつ、歩みを進め始めることができるようになりました。

まず、心療内科に通い始めました。社交不安障害の診断がおりて、薬を飲み始めたところ、少しずつではありますが精神状態が快方に向かい始めました(これに関してはとてつもなく運がよかったと思います、自分に合う心療内科と薬を見つけるのは大変なことなので。)。

それから「もっと他人と関わる機会を増やさなければならない」、そして「何か新しい形で、他人の指導を受けながら表現に関わることができたら良いかもしれない」という考えで、お芝居のワークショップをやっている劇団に入団しました。

今までは視聴者として没入するだけだった“物語”というものを、自分の声と身体、他人との掛け合いの中で作り上げいく作業は、とても面白く刺激的で、今のところ楽しく続けられています。

人前で何かしらの判断を迫られた時など、何ともし難い不安が襲う瞬間は今でもあります。疲れがたまって情緒が不安定になる日もごくたまに訪れます。ただ今は、少しだけ気持ちを上向きにできる“きっかけ”を持てている、と感じています。

それは私にとってはとても新鮮で、わくわくするような感覚でした。

そして、その感覚が最も鮮明になり、ひとつの大きな発見へと繋がったのが映画『HiGH&LOW THE WORST』と、12/26の横浜アリーナでのイベントがくれた時間でした。

(続きます。)

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