ミチスガラ

LDHアーティストが好き。色々書きます

「つづく」人達がもたらすもの

10代の頃から追いかけて聴き続けている国内ミュージシャンが二組いて、ちょうど先月、それぞれに節目と言えるライブを見届けることができた。一組目はスムルース。そしてもう一人が矢野絢子

それらのライブを通して、アーティストの音楽活動が「つづく」ことの意味とその大きさを、聴き手として改めて考えさせられたので、書き留めておきたい。(だいぶ勢いのまま書いたので、読みづらかったら申し訳ない。)

スムルース

スムルースは、2004年デビューのポップバンドで、代表曲は「冬色ガール」「スライドブルー」「スーパーカラフル」など。

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…とWikiにはあるが、レコード会社の移籍があった関係か、いずれもストリーミング配信がないのでバンドの色がわかりやすい映像を貼る*1。それと、スムルースの楽曲の中で最も“売れた”曲である「冬色ガール」は10年前(!)にダンス&ボーカルグループ・Leadがカバーしたことがあり、そちらの音源は配信されている。

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ちょうど最近、THE RAMPAGEのRIKUさんが出演していたミュージカル「『天使について』~堕落天使編~」のキャストとしてその名前を見かけたばかりのLead*2

このカバーが発売された当時、Leadの人達が原曲について「日本語による表現力の奥深さと、それを表現するためのサウンドづくりにすごく影響を受けた*3*4」と語っていたのをよく覚えている。彼らはその後もスムルースに対して折に触れ敬意を表していて、当時からファン目線で嬉しく思っていた。ちなみにこのカバーから10年経った今年、Leadは20周年イヤーなのだそうです。EXILEとたった一年違いという…おめでとうございます。

Leadの人達が言っていた通り、Vo.徳田さんが書くクセのある詞とキャッチーなメロディにより生み出される抑揚の心地よさは、彼らの大きな強みである。

中でも「冬色ガール」のサビで突然脈絡もなく登場する「ポツリ 心 コロリ 恋 ぬけがら」という断片的な擬音と名詞だけで成るフレーズは、やっぱり頭一つ抜けた魅力を放っている。

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YouTubeでも原曲は非公式のものしかない。Lead、ありがとう)

普通に発音すると然程に意味やまとまりのない単語の羅列に聞こえるのに、歌として聴くと連打される破裂音「」がリズミカルに感じられて心地よいし、バックで鳴る吹雪のようなストリングスの音色が、言葉から匂いたつ無常感を引き立たせる。その後の「ぽっかり空いた私の体に冷たい雪がまるで永遠積もる」という少しばかり不揃いな語感も、流れの中でわりとすんなり聴けてしまうほど、最初のインパクトがデカい。この曲のヒットには色々な要因があっただろうけど(NHK『ポップ・ジャム』への出演がきっと大きい)、徳田さんの言語センスが一際冴え渡っていたことも確実に一因としてある。

他にも、「君」を求める気持ちとどうしようもない無力感とが都会の喧噪の中で交差する「交差点」、喜びと痛みの間で引き裂かれる感覚を「幸福の引き金を引いた」というワンフレーズで表した「リリックトリガー」なんかは、紛うかたなき名曲だと思う。

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多少アクの強さはあるものの、これだけポップで聴き易く、また言語表現の深みもある楽曲を備えながら、今一つヒットしきらず今に至っていることを昔は不思議に思っていた*5。この辺りの話は主題から逸れるので割愛するが、改めて振り返れば、彼らのようなキャッチーなポップロックバンドの道というのは実際、非常に険しいものだったのではないかと思う*6

ともあれ2016年、徳田さんのご病気など色々な事情(があったと見受けられた)により、スムルース活動を休止。ただし、最後のライブの時から彼らは「これは“おわり”ではなく“つづく”です」と繰り返し伝えてくれていた。

その後、別々で音楽活動を続けながらの充電期間を経た2020年、活動再開&ライブ開催を宣言……したものの、あっという間に新型コロナの感染拡大が起こり、一旦白紙化。めげることなく再開のタイミングを伺い続け、やっと感染拡大が少し落ち着いてきた2021年秋頃、フェスやイベントでの演奏を再開。単独ライブも改めての開催を決定、告知……したものの直前に感染拡大し始めたオミクロン株の影響により「まん延防止等重点措置」再開。ギリギリまで開催が危ぶまれていたがライブ配信&払い戻しの対応とともに入念な感染対策の下、2022年2月4日の単独ライブは決行された。やっと、本当にやっとのことで彼らは完全復活を示すことができた。

当日、最初にステージに登場した時のVo.徳田さんは客席をぐるっと眺めてから「…知ってる顔ばっかり!」と笑顔を見せていた。

はじめは緊張しているように聴こえた歌声もその後どんどん伸びやかになった。陽気な管楽器の音色のように心が弾む、昔のままの聴き心地。懐かしい楽曲たち、いつも通りの間の抜けたMC、客席にいる誰もがずっと待ち望んでいた光景がそこに繰り広げられていた。

それぞれ別の形で音楽と向き合ってきた*7時間を経て集まり、ステージで音を鳴らす三人の万感の表情が、六年という期間の長さと重さを物語っていた。

ライブ終盤、テンションが上がり切って半ばトランス状態になった徳田さん(これは割といつものことである)が、こう叫んでいた。

「なんか武道館行ける気がしてきた!武道館行きたい!!」

あまりの屈託のなさに場内爆笑――したいところを抑えて失笑、という感じになってしまった。両サイドのメンバーも少し困った様子で笑っていた。もちろん嘲笑の類の笑いではない。その場にいる人の多くが、徳田さんは本気でこういうことを言う人だと理解していた。

武道館行けるよ、と私も思う。とりあえずスムルースTikTok始めてみるのはどうでしょうか。絶対似合うと思うんだけど。

矢野絢子

続いてもう一人。シンガーソングライターの矢野絢子さん。

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1997年から地元・高知県のライブハウスを拠点に活動し始めたピアノ弾き語りのソロシンガー、矢野絢子*8の25周年を記念したライブが2月20日、矢野さんの地元・高知県土佐市で行われた。

私が矢野絢子の音楽に出会ったのは遡ること18年前、彼女がデビューした2004年のことだった。冴えない日常の中で刺激的なバンドミュージックを多く求めていた当時、矢野さんの凍てついた冬の空気のような歌声と叩きつけるピアノの音、儚く尊く美しい情景が浮かぶ詞、その全てに痺れて、強烈な憧れを抱いた。

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美しい歌、美しい言葉の基準が一気に塗り変わった感じがした。もはや恋のようだった。それから関西でのライブにはなるべく足を運び続けたし、長らく彼女の活動拠点だった高知県・歌小屋の二階へも度々出向いたし、自分が音楽活動をしていた時には同じステージに立たせてもらったこともあった。誰のどんな歌よりも、矢野絢子の歌を聴きながら生きて、育って、私は大人になった。

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矢野さんの歌は、長い活動の中でさまざまな変化を遂げていった。上の動画は2017年に撮影されたライブ映像だが、デビュー時よりもだいぶハスキーボイスになったし、昔の曲は大体キーを下げて歌っている。ただしその一方で歌唱力と演奏力は各段に上がり、表現に深みが増した。幼い獣が牙を剥いているようだった力強さは、全てを飲み込んで包み込んでしまう類の強さに変わった。

また一方で、変わらない部分も多くある。様々な土地を旅してまわりながら歌う、という活動を大切にしているところと、ひたすら湯水のように曲を作り続けているところは一貫していた。なんだかんだ、ずっと「今が一番カッコいいなぁ」と思わせられている。

高知駅からバスに乗り、40分強かかって辿り着いた会場は、土佐市が二年前に新設した複合文化施設「つなーで」にあるコミュニティホール(すごく綺麗で過ごしやすい建物だった、グッドデザイン賞とか受賞してるらしい)。

ホールの入口付近の壁には数多くのファンから寄せられた矢野さんへのお祝いメッセージが貼られていて、それを眺めていたらもう涙が出てしまった。

「ずっと私の人生と共に歌がありました」。

矢野絢子の歌があったから、ここまで生き抜いてこれた」。

「あなたの歌は自分の居場所を照らしてくれる、月明かりのようだった」。

どれもこれも強い思いが込められていて、その多くに共感できた。私も一人で泣きながら、呪文のように矢野絢子の歌を口ずさんで過ごした日があった。詞の意味はよくわからなかったり、その都度変わったりした。そうして、あの声とピアノと、生と死を深く見つめる歌に触れている間だけは、気持ちが救われた。そういう時間が実際に、何度もあった。

そんなことを思い出しながら観たライブは、とても素晴らしかった。サポートミュージシャンとダンサーとともに作り出される音とリズムの全てが温かく、心ゆくまで充たされる時間だった。

ライブでは、私が最初に出会った楽曲である「てろてろ」を含め、懐かしい楽曲が多数披露されていた。

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本当はいつも君の事を想っている、と歌う素朴なラブソングでありながら“君”に対する果てしない覚悟を感じさせられた、当時の歌声。それが今は「誰にも負けないくらい君のそばにいたいんだ」という一節すら、遠い場所から空に向かって祈り続けるような、穏やかな愛情として感じられた。

深く親しんできた懐かしい歌が、目の前で“今”の形で奏でられるとき、その歌を聴いて過ごしてきた自分の人生を振り返り、慈しむような気持ちが湧いてくる。あの時こんなことがあった、あんな思いをした、こんな出会いがあって別れがあった。でも何とか自分はここまで生きてきたんだな、と。聴き手として、何ものにも代えがたい幸福な体験がここにある、と近年では特に思う。

矢野さんは、コロナ禍の影響で旅をするのが難しくなってからも立ち止まることなく、すぐに配信ライブを開始し、今でも継続している。それだけでなく地元の人達と連携して畑をやり始めたりだとか、新しいことにもどんどん挑戦していて、年々活動的になっている。

この日、ライブ終わりに声をかけた時も「もうあと4、5人くらい私が欲しいくらい!」と言っていた。私と矢野さんはちょうど10歳離れているけど、その底知れないバイタリティには恐れ入るばかりだし、見ているだけで力をもらえる。

もう何百回もライブを観ながら思ったことだけど、出会えて良かった。こんな風には多分一生なれないけど(笑、自分にとってはずっと憧れの存在であり奇跡的な歌い手。当日に汚い字で散々「ありがとう」と書き綴った手紙も渡したけれど、改めてここに感謝を表したい。

EXILE、そして「つづく」人達がもたらすもの

絶頂期と思える時に去りたい、という美学を持って、実際にその通りにやり切って終わるアーティストも居る。そもそも本意でないのに続けることを余儀なくされて活動そのものが苦痛になる、というのが何よりも悲しいパターンなのであって、そうでなければ最適解はそれぞれにあり、どちらが正しいと言えるものでもない。ただ、その上で自分は今「つづく」人達のあり方を称えたいと思う。

歌い手、奏で手が表現活動を続けることで、聴き手もまたその音楽を通して多大な財産を得る。人それぞれの過去、現在、未来に流れる歌と、そこから生まれる人と人との繋がり。その歌に出会わなければ生まれなかったそれらは、文字通りかけがえのないものだ。

「つづく」ことには、そうした大きな意味や所産が生まれる。しかし同時に、アーティストにとってのそれは多大な重圧にもなるのだろうと想像できる。

だからこそ、オリジナルメンバーが居なくなってから更に勢いを増して新たな音楽表現を模索・試行しているEXILEの姿も、私にはとても尊く映る。

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去年の『RISING SUN TO THE WORLD』映像化したものが発売されたので、改めてじっくり観ることができたが、トップバッターでどこまでもアッパーに攻めて攻めて、一気に会場を熱く盛り上げたEXILEはやっぱり素晴らしくカッコよかったと思う。

また、<EXILE RESPECTシリーズ>を通して過去の名曲を今の円熟した歌声と新たなアレンジで歌い直すTAKAHIROさんの試みにもリスペクトを向けたくなる。

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無論、芸能の分野が大きく関わるLDHアーティストと先の二組の活動形態は全くもって異なるので、単純に比較できない部分もあるかもしれないけども。

(ただ個人的には、ここに挙げた誰もが『音楽をやることが好きな人たち』である点で共通していると思っているし、そうした目線をいつも根底に持っておきたいと考えている。)

「つづく」ことの意味と重みを背負いながら覚悟を決めてステージに立ち、見る人に多種多様な感動を与える表現者達。そういう人達が、少しでも多く長く“今”の自分としての表現活動をやり切れますように、と、ずっと身勝手に願っている。

 

*1:ちなみに途中で始まるVo.徳田さんの“逆さ習字”芸は昔からの恒例で、その昔「逆さ習字だけしに来てほしい」というオファーがきたこともあるらしい

*2:調べてみたら、つい最近のオンラインライブでも「冬色ガール」を歌っていたらしい:Lead Upturn 2021 ONLINE LIVE 〜Sonic Boom & GuiDance〜 | Lead Official Web Site 

*3:伸也です⇒111 | Leadオフィシャルブログ「Leadship」Powered by Ameba (ameblo.jp)

*4:Vo.徳田さんもこのブログに対して「感動しました」と感謝を込めたブログを書き返している

*5:もっとも“今”の感覚で改めて聴き直すと「WALK」など一部楽曲における家父長制的な家族観が若干気にかかる等といったことはあるかもしれない。「WALK」そこ以外はすごく良い歌なんだけど

*6:ひとえにゼロ年代以降のバンドとしては素朴すぎたんじゃないかとは思う。もちろんそれこそが彼らの魅力だということも重々わかっているんだけど(ただし今だったらまた少し違ってくるんじゃないかな、ということも実は思っているので、そういう意味でも復活してくれてよかった)

*7:Gt.回陽さんもBa.小泉さんも現在進行形で腕利きのサポートミュージシャンとして活躍しているし、徳田さんも休止期間には会社経営の傍ら音楽活動を継続しソロアルバムもリリースしていた

*8:当初は大久保和花とともにフォークデュオの「モナカ」として活動しており、2001年からソロ活動を開始、2004年にメジャーデビューした